2012年10月6日土曜日

ゴジラにエレキに無責任!東宝50周年三本立ての思い出

ゴジラ(1954年)
ニッポン無責任時代(1962年)
エレキの若大将(1965年)

こんな強力な三本立てを観に行ったことがある。
確か東宝映画50周年記念の三本立てだったと記憶している。

東京では古い邦画を上映している映画館はたくさんあるのだろうが、北海道ではそういった名画座はほとんどない。ゴジラは大好きだったし、高度経済成長期の空気に憧れていた少年だったので、期待しながら観に行ったのだ。

もう今から30年前のことである。
さて、映画は面白かったか?

それはもう、最高に面白かった。
当時の印象としてはこんな感じであった......

ゴジラ

オリジナルゴジラ、最初のゴジラである。
東宝盗撮の怪獣映画は、ライブアクションと特撮の連携、そして細かい演出が素晴らしいという。
まさにその真骨頂がここにあった。
その怪獣はどれほど巨大で恐ろしい生き物なのか、徐々にその姿が明らかになる展開は、当時の観客を大いにドキドキさせたはずだ。
砂浜についた足跡がものすごくリアルに感じたこと、必殺シリーズがまだ人気だったので、若き日の菅井きん登場シーンで観客が湧いたことなんかも覚えている。
80年代においても、初代ゴジラは相当古い映像であったが、十分に楽しめる怪獣映画だったと思う。1作目のキングコングと同じなんじゃないだろうか。

余談であるが、ゴジラを倒した「オキシジェンデストロイヤー」は、なんと特撮博物館で展示されていて、実物の姿を見ることができた。
これがゴジラを倒したオキシジェンデストロイヤーかぁ....ほぼ60年前の映画の小道具が、きちんと保存されていたことにも驚きであった。


ニッポン無責任時代

高校時代にラジオでクレージーキャッツの曲を聴いた時の衝撃は忘れられない。
こんなすごい音楽があったのか!
ベスト版のカセットテープを買って、そればかり聴いていた頃があったほどだ。
そんなクレージーキャッツの代表作ともいえるこの映画、当たり前だがクレージーの面々が若い。
そして、なんというお気楽さ、なんという無責任、なんというC調!
植木等という天性の演技者を得て、「無責任」や「スーダラ」というスタイルは、昭和のサラリーマンの一つのスタンダードになったのではなかろうか。
「さぁ~歌うか~」といっていきなり歌いだす植木等のあの軽さ、「渋み」ではなく「軽み」とでもいえば良いのか、洗練された軽さがたまらない。



エレキの若大将

意外に面白かったのがこの映画。
クレージーキャッツは80年代に再評価の動きがあったのだが、若大将シリーズはそういった回帰もなく、僕にとっては完全に懐メロの扱いであった
だが意外にも、意外にも、意外にも、エレキの若大将はものすごく面白かったのである。

まず驚くのはその内容だ。
もう、映画一本まるまる加山雄三のPV状態である。
「二枚目で人望がありスポーツ万能、エレキも弾ける、歌ったらこれまた上手」という全方向にわたっての出来っぷりは、まさに若大将としか呼びようがない。
かなり現実味の薄いキャラクター設定だが、このシリーズは毎年のように作られていたわけで、制作当時の加山雄三人気は凄いものがあったのだろう。
実際、当時の加山雄三はカッコいいし、音もなかなかイカしてる。(今聴いた方がよりイカしてる感じだ)

急きょバンドを作ることになった若大将が、蕎麦屋の寺内タケシをメンバーにするあたりの描写もいい。上手いんだ寺内タケシが。
そして勝ち抜きエレキ合戦の司会者が内田裕也なんだけど、「マイネームイズ ショーンコネリー!とかなんとか言っちゃったりして(笑)」という、つかみになってないつかみもすごく60年代っぽい。
最期にヘリコプターでアメラグの試合にかけつけて、そのままタッチダウンを決めちゃったりするのがまたサイコーである。
恋に笑いにエレキにスポーツ、そして家族の絆。
とてもバランスが良くって、王道の楽しさを味わえる娯楽映画だった。
そして、映画のエンディングは早くも次回作の予告「アルプスの若大将」で幕を閉じるのだった。


青春時代、リアルな体験としてこれらの映画を観たかったなぁと、今でも思っているのである。




2012年9月24日月曜日

銀背のブラッドベリ、その素晴らしい読書体験

図書館でスカイラークと刺青の男を借りたら、金背と銀背が出てきた話の続き。
スカイラークを読み終えて、次に刺青の男を読み始める。

スカイラークの時にも書いたのだが、この刺青の男はなかなかの年代物である。
なんといっても僕が生まれる前に出版されているのだ。(昭和35年発行 220円!)
僕の次の世代のSF読みが、この本を手に取る日がやってくるかもしれない。
くれぐれも取扱い注意なのだ。

幸いなことに息子が夏休みの自由研究で作った「本革ブックカバー」が、どういうわけかサイズぴったりだったので、これを装着して読み始める。
このブックカバー、縫い目はでこぼこであるが、意外と手触りが良い。



ぱらぱらっとめくって驚いた。
小さい「つ」、すなわち「っ」が使われていないのだ。
小さい「っ」は全部大きな「つ」で表記されている。
さすがに戦時中ではないので旧仮名遣いではないが微妙に古い感じ。
そこがまたクラシカルな雰囲気を漂わせているではないか。

もちろん、どの版で読んでも小説の面白さに違いがあるはずはない。
でも、銀背で読むブラッドベリは、なんだか特別な魔法をかけてくれそうな気がする。
そしてあの古書特有の匂い、僕はあの匂いが好きなのだ。

プロローグ、草原と読み進め、最初のクライマックス「万華鏡」がやってきた。
心を震わせながら何度目かの万華鏡を読む。


僕はサイボーグ009も大好きなのだが、このヨミ編を先に読んでいたので、初めて万華鏡を読んだときは「なんだろうこのデジャブな感じ...」と思ったものである。

エンディングがちょっと似てやしいないか?と思ったのたのは相当後になってからである。でもあまり気にならなかったなぁ。

009と万華鏡については、色々な人が色々なことを言っているが、僕は両方傑作なのでそれで良いのでは?と思っている。





しかし何度読んでも万華鏡はいい。
一度本を閉じて、ほーっとため息が出る。

そこから先は時代のせいなのか、人種差別や東西冷戦を感じさせるお話も。
続いて2度目のクライマックスである「今夜限り世界が」。
この読後感は星新一だよなぁ......星さんブラッドベリ好きだったんだろうな。

そしてさらに一作一作、読み応えがある手ごわい傑作が続くのだ。
ストーリーを追うだけではなく、文体や紙の手触りを味わいながら読み進める。
このままどんどん読んで、最後に到達してしまうのが勿体ないほどである。

そしてラストの「ロケット」にたどり着く。
ああもう終わってしまった、そんな感じだ。
そしてエピローグ、再び僕は刺青の男と向き合うことになる。

しみじみとしたり、感動したり、ちょっと毒をもられたり。
SF小説の神髄は短編にあり、ということなのだろうか。
銀背の刺青の男は、手触り、匂い、重み、そして何よりもその内容で、素晴らしい読書体験を与えてくれたのであった。

なお、僕はストーンズの「刺青の男(Tattoo You)」も大好きである。

2012年9月23日日曜日

あの夏のエイリアン~そしてプロメテウス#2

2012年の夏。

僕は2本のSF映画に熱い視線を送っていた。
「遊星からの物体X ファーストコンタク」そして「プロメテウス」。
どちらも僕にとっては思い入れのあるSF映画、その前日譚となる作品である。
初めに観たのは物体Xファーストコンタクトの方だ。
札幌では単館上映、しかも上映期間が短いので、先に観ておこうと思ったのである。

物体Xはちょっと驚くほどの素晴らしい出来映えだった。

この映画のコンセプトは明確だ。
82年版物体X、あの話の前に何があったのかを丁寧に描くことだ。
映像の肌触りや、音楽、クリーチャーの造形、したたってくる液体の感じ。
お見事としか言いようがない、まさにこれだという感じ。
「どう?これが観たかったでしょ?」という声が聞こえてきそうなのだ。
では、エイリアンの「ファーストコンタクト」はどうか?
僕は感慨深い気持ちで映画館に向かった。

初めてエイリアンを観て衝撃を受けてからゆうに30年以上が経過している。



その間に色々な映画監督が続編を作ったが、エイリアンの持つ神秘性が薄れてゆくようで、僕は続編に対しては素直な気持ちで観ることができなかったりする。
1作目ではまだ若く元気だったリプリーが、その後の過酷な生活で疲れ果ててゆく様子も切なかった。
でも続編がつまらないと言っているわけではない、1作目があまりに好き過ぎるのだ。

中学生だった僕は、エイリアンを観た後で一生懸命考えた。

 ・あの惑星にあった巨大な船はなんだったのか?
 ・台座のような物に乗った異星人は誰なのか?
 (当時はスペースジョッキーなんて言葉は知らない)
 ・どうしてエイリアンの存在を知っている人間がいたのか?

僕は映画が始まるのを待ちながら、ぼんやりと考えていた。
「プロメテウスを観ることで全ての謎が解けるのかな?」


そして映画が始まった。
全てがエイリアンの1作目につながり、随所に1作目を思わせる演出が入って欲しい。
そんなわがままな気持ちになっている。

LV-223に着いてからの乗員たちの動き、アンドロイドの動き。
無意識のうちにエイリアンと比較して、どこが違っているのか、どこが考慮された点なのか、チェックしている自分がいる。
当然のことながらこの惑星に入って無事で済むわけがなく、一人また一人と犠牲者が出始める。
エイリアンの続編でも相当にエグい描写があったが、ノオミ・ラパスの痛めつけられようは半端ではない。

でも映画が進むにつれて僕はこんな気持ちになった。
「これはエイリアンの0作目ではなく、プロメテウスの1作目なんだ」
物体Xファーストコンタクトの時に感じた「待ってました!」という感じはない。
エイリアンの前日譚というよりは、単に同じ世界を共有している別な作品のようにも思える。
映画の世界に入り込んでいながらも、ちょっとだけ頭の片隅でこんなことを考えていた。

プロメテウスは映画としては相当面白かったと思う。
しかしこれはエイリアンンの0作目ではなく、やっぱりプロメテウスだった。
そこが面白くもあり、残念なところでもあったと思うのだ。

別な監督が撮影していたら、もっと「あざとく」エイリアンにつながっていたかもしれない。
個人的には人類の起源を全面に押し出したプロモーションは違和感があった。

「再び、宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」

で良かったのでは?


2012年9月15日土曜日

宇宙のスカイラークを借りたら「金背」が出できた

会社の近くにある図書館。

そこは蔵書が多いのでSF小説の文庫なんかは、その全てが見られるわけではなく、閲覧したい本を探して申告する仕組みになっている。検索システムから目指す本を探して「出力」すると、レシートのような紙がプリントアウトされて、それをカウンターに持って行くのだ。

今回僕が選んだのは「宇宙のスカイラーク」と「刺青の男」である。
両方ともとこかにいってしまって、もう家にはないのだ。

図書館の受付の人が持ってきた本をみて、僕は自分の目を疑った。
宇宙のスカイラークは金背、刺青の男は銀背だったのである。
僕の世代にとっては、金背も銀背も実物をおがんだことがなく、「ははーっ!」という感じ。
こんな貴重な書籍を借りていいんだろうか、という気持ちであった。
とはいえ久しぶりに読みたかったので、ありがたくお借りしたのだが。

 

 家に帰ってからいろいろとみたところ、実に驚くべきことがたくさんあった。

  • 宇宙のスカイラークは昭和41年発行、280円。
  • 刺青の男は昭和35年発行 220円
  • 両方とも保存状態がきわめてよく、図書館でありがちな全面ビニール貼りがされてなかった。
  • 宇宙のスカイラークは野田宏一郎!さんが解説。
  • 刺青の男は福島正実さんが解説。

僕がどれほど興奮していたか。
宇宙のスカイラークは野田昌宏じゃなくって、野田宏一郎が解説してるんだぜ!(野田調で)

今のところは、まだ「宇宙のスカイラーク」しか再読してないのだが、久々に読むスカイラークはちょっと違った印象があった。

冒頭はSFというより、古式ゆかしい探偵小説みたいであるし、意外とロマンス要素が多かったり。
ヒロインのドロシーは往年のパルプSFでいうところの「鋼鉄のブラ」をつけて恐怖におののいているタイプではなく、もっと活動的だし恋愛に積極的だ。

それにしても.....

やはり宇宙のスカイラークは面白かった。
ハイブロウなSF小説が好きな人には、こういったジャンルはもう化石みたいなものかもしれないが、面白いものは面白いのだ。個人的にはいきなり全開でいっちゃうレンズマンの方が引き込まれるが、スカイラークの持つフェアプレー精神みたいな世界観も好きである。

どうだい?君もスペオペしといて良かっただろ?
という野田さんの声が聞こえてくるのである。





2012年9月9日日曜日

世界でたった一人になった僕はガープの世界を観つづける

ガープの世界を観にった僕は不思議な体験をした。
僕以外の観客がいないという、貸切の状態で映画を観たのである。

映画館に入ったら観客は僕一人だった。
映画が始まるまでに誰か入って来るかと思ったら、誰も来ないまま映画が始まってしまった。
後にも先にも貸切状態で映画を観たのはこの映画だけだ。
ガープの世界って、札幌ではあんまり人気がなかったのだろうか?

映画はもちろん面白かったのだが、途中から一人で映画を観ていること自体が妙に気になり始めた。
そしてこんな想像が頭から離れなくなってしまったのだ。

僕はこの世界でたった一人生き残った人間である。

原因不明の病気、異星人のばらまいたウィルス、彗星の光の影響。
理由はわからないが、とにかく
僕以外の人間は誰もいない。
たった一人、この街に取り残されてしまっているのだ。

そして僕はなぜか映画館でガープの世界を観ているのだ。
毎日毎日、決められたように映画館に行き、飽きもせずガープの世界を観つづけている。
人間という主人を失った街は、最後の生き残りになった僕の行動を、息ひそめて見守っている。
でも僕は何をするでもなく、ずっとガープの世界を観つづけるのだ。

映画が終わって、僕の想像も唐突に終わってしまった。
当たり前であるが、映画館を出たら外には行き交う人々がいて、やっぱり僕は一人じゃなかったんだと、ほっとしたようながっかりしたような気分になったのを憶えている。
ディック、筒井康隆、漱石の夢十夜なんかが好きだったので、こんな想像をしたのかもしれない。

さて、映画はとても素晴らしかった。
生きてゆくことの大変さと素晴らしさや、抗うことのできない運命もあるが生きて行かなきゃ、といったメッセージを感じた。
その頃の生活はシンプルで気楽なものだったから、この映画のメッセージがじんわり効いてくるのは、もっともっと後になってからの話なのだが。

ふとした時、空っぽの映画館とともに、あの映画を懐かしく想い出すことがある。
ガープの世界は、僕にとって何か特別な映画のような気がする。

2012年9月6日木曜日

間違いなく僕はデルタハウス

人を外見や属性で判断してはいけないし、先入観でとらえるのもいけない。
ただ、たまにふと思うことはある。

「こいつ、デルタかオメガか?」

ちなみに、僕は間違いなくデルタハウスの住人である。
確かに今は落ち着いてはいるものの、若い頃は絶対に「デルタ」だった自信がある。


仕事でいろんな人をみてきた。
仲良くなれそうな人は、大抵はデルタハウスのにおいがするのだ。
この人オメガだ、と思ったらもう仲良くできない。

アニマルハウスは大好きな映画というよりは、とても大切な映画といった方が良いかもしれない。
ジョン・ベルーシの映画で一番好きだ。
まだ健康そうで、生き生きとしているベルーシがそこにいる。
泣きたくなるような青春、弾けるような青春、馬鹿みたいに笑っちゃう青春がそこにある。

僕がこの時代のアメリカにいて、この学校にいたら間違いなくこの写真の中にいたに違いない。
そう思わせるものがある。

あの夏のエイリアン~そしてプロメテウス #1

1978年の夏。

もしかしたら僕の家族が全員そろって暮らしていた、最後の夏かもしれない。
夏休み、僕と兄貴は映画を観に行こうとしていた。

兄貴はその夏最大の話題になっていったエイリアンを。
僕はラルフ・バクシの指輪物語を。
SF映画好きだったので、エイリアンも観に行きたかったのだが、お互い違う映画を観てから情報交換しようと考えたのかもしれない。

指輪物語はとても面白かった。
原作は読んでいなかったのだが、なにやら壮大なお話であり、ロトスコーピングという革新的な技術が使われているとか、僕の中では期待感があったのだが、それを裏切らない面白さだった。

そして同時上映はチキ・チキ・バン・バン。
こちらも面白かったのだが、ここではちょっとおいておく。

僕が家に帰ってきてから少したって、興奮した兄貴が帰って来た。

   「エイリアン......あれはすごい映画だぞ」

僕もいずれは観に行くことを思いやって、兄貴はネタバレになりそうな事は言わなかった。
しかし「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえないって宣伝文句は本当だ。あの映画は本当に凄い。歴史に残る映画だ」と絶賛していたのを憶えている。

そして数日後に僕もエイリアンを観に行き、確かに宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえないってのは本当だと、これはSF映画の歴史に残る作品だと、そう思って帰って来た。

あの夏の日はとても暑かったのを憶えている。
でも映画館の中はとてもひんやりとしていた。
単に冷房がよく効いていたという事だけではなく、全ての場面が宇宙船や異星で展開するエイリアンの世界に引き込まれていたのだと思う。

エイリアンを観終わって映画館の外にでる。
すっかり冷え切った頭と体に、むせるような熱気がまとわりつく。

さっきまであんなに凄い事が宇宙でおきていたのに。
さっきまで僕らはリプリーと一緒に戦っていたのに。
でも、映画館の外はいつもの日常だ。
このギャップがとても印象に残っている。
あれ以来、僕にとってはSF映画は夏の季語である。

あれから30年以上が過ぎて、僕はやはり夏にプロメテウスを観ることになった。
あの夏のエイリアンの記憶を心にいだきながら。

プロメテウスはエイリアンのような衝撃はなかったが、僕にとっては感慨深い作品となった。