2012年9月24日月曜日

銀背のブラッドベリ、その素晴らしい読書体験

図書館でスカイラークと刺青の男を借りたら、金背と銀背が出てきた話の続き。
スカイラークを読み終えて、次に刺青の男を読み始める。

スカイラークの時にも書いたのだが、この刺青の男はなかなかの年代物である。
なんといっても僕が生まれる前に出版されているのだ。(昭和35年発行 220円!)
僕の次の世代のSF読みが、この本を手に取る日がやってくるかもしれない。
くれぐれも取扱い注意なのだ。

幸いなことに息子が夏休みの自由研究で作った「本革ブックカバー」が、どういうわけかサイズぴったりだったので、これを装着して読み始める。
このブックカバー、縫い目はでこぼこであるが、意外と手触りが良い。



ぱらぱらっとめくって驚いた。
小さい「つ」、すなわち「っ」が使われていないのだ。
小さい「っ」は全部大きな「つ」で表記されている。
さすがに戦時中ではないので旧仮名遣いではないが微妙に古い感じ。
そこがまたクラシカルな雰囲気を漂わせているではないか。

もちろん、どの版で読んでも小説の面白さに違いがあるはずはない。
でも、銀背で読むブラッドベリは、なんだか特別な魔法をかけてくれそうな気がする。
そしてあの古書特有の匂い、僕はあの匂いが好きなのだ。

プロローグ、草原と読み進め、最初のクライマックス「万華鏡」がやってきた。
心を震わせながら何度目かの万華鏡を読む。


僕はサイボーグ009も大好きなのだが、このヨミ編を先に読んでいたので、初めて万華鏡を読んだときは「なんだろうこのデジャブな感じ...」と思ったものである。

エンディングがちょっと似てやしいないか?と思ったのたのは相当後になってからである。でもあまり気にならなかったなぁ。

009と万華鏡については、色々な人が色々なことを言っているが、僕は両方傑作なのでそれで良いのでは?と思っている。





しかし何度読んでも万華鏡はいい。
一度本を閉じて、ほーっとため息が出る。

そこから先は時代のせいなのか、人種差別や東西冷戦を感じさせるお話も。
続いて2度目のクライマックスである「今夜限り世界が」。
この読後感は星新一だよなぁ......星さんブラッドベリ好きだったんだろうな。

そしてさらに一作一作、読み応えがある手ごわい傑作が続くのだ。
ストーリーを追うだけではなく、文体や紙の手触りを味わいながら読み進める。
このままどんどん読んで、最後に到達してしまうのが勿体ないほどである。

そしてラストの「ロケット」にたどり着く。
ああもう終わってしまった、そんな感じだ。
そしてエピローグ、再び僕は刺青の男と向き合うことになる。

しみじみとしたり、感動したり、ちょっと毒をもられたり。
SF小説の神髄は短編にあり、ということなのだろうか。
銀背の刺青の男は、手触り、匂い、重み、そして何よりもその内容で、素晴らしい読書体験を与えてくれたのであった。

なお、僕はストーンズの「刺青の男(Tattoo You)」も大好きである。

2012年9月23日日曜日

あの夏のエイリアン~そしてプロメテウス#2

2012年の夏。

僕は2本のSF映画に熱い視線を送っていた。
「遊星からの物体X ファーストコンタク」そして「プロメテウス」。
どちらも僕にとっては思い入れのあるSF映画、その前日譚となる作品である。
初めに観たのは物体Xファーストコンタクトの方だ。
札幌では単館上映、しかも上映期間が短いので、先に観ておこうと思ったのである。

物体Xはちょっと驚くほどの素晴らしい出来映えだった。

この映画のコンセプトは明確だ。
82年版物体X、あの話の前に何があったのかを丁寧に描くことだ。
映像の肌触りや、音楽、クリーチャーの造形、したたってくる液体の感じ。
お見事としか言いようがない、まさにこれだという感じ。
「どう?これが観たかったでしょ?」という声が聞こえてきそうなのだ。
では、エイリアンの「ファーストコンタクト」はどうか?
僕は感慨深い気持ちで映画館に向かった。

初めてエイリアンを観て衝撃を受けてからゆうに30年以上が経過している。



その間に色々な映画監督が続編を作ったが、エイリアンの持つ神秘性が薄れてゆくようで、僕は続編に対しては素直な気持ちで観ることができなかったりする。
1作目ではまだ若く元気だったリプリーが、その後の過酷な生活で疲れ果ててゆく様子も切なかった。
でも続編がつまらないと言っているわけではない、1作目があまりに好き過ぎるのだ。

中学生だった僕は、エイリアンを観た後で一生懸命考えた。

 ・あの惑星にあった巨大な船はなんだったのか?
 ・台座のような物に乗った異星人は誰なのか?
 (当時はスペースジョッキーなんて言葉は知らない)
 ・どうしてエイリアンの存在を知っている人間がいたのか?

僕は映画が始まるのを待ちながら、ぼんやりと考えていた。
「プロメテウスを観ることで全ての謎が解けるのかな?」


そして映画が始まった。
全てがエイリアンの1作目につながり、随所に1作目を思わせる演出が入って欲しい。
そんなわがままな気持ちになっている。

LV-223に着いてからの乗員たちの動き、アンドロイドの動き。
無意識のうちにエイリアンと比較して、どこが違っているのか、どこが考慮された点なのか、チェックしている自分がいる。
当然のことながらこの惑星に入って無事で済むわけがなく、一人また一人と犠牲者が出始める。
エイリアンの続編でも相当にエグい描写があったが、ノオミ・ラパスの痛めつけられようは半端ではない。

でも映画が進むにつれて僕はこんな気持ちになった。
「これはエイリアンの0作目ではなく、プロメテウスの1作目なんだ」
物体Xファーストコンタクトの時に感じた「待ってました!」という感じはない。
エイリアンの前日譚というよりは、単に同じ世界を共有している別な作品のようにも思える。
映画の世界に入り込んでいながらも、ちょっとだけ頭の片隅でこんなことを考えていた。

プロメテウスは映画としては相当面白かったと思う。
しかしこれはエイリアンンの0作目ではなく、やっぱりプロメテウスだった。
そこが面白くもあり、残念なところでもあったと思うのだ。

別な監督が撮影していたら、もっと「あざとく」エイリアンにつながっていたかもしれない。
個人的には人類の起源を全面に押し出したプロモーションは違和感があった。

「再び、宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」

で良かったのでは?