ものすごい忙しさが少し落ち着いた。
4月から5月はほとんど映画に行くことができなかったのだが、6月はその反動が来たのか、僕にしては足しげく映画館に通ったような気がしている。
6月観た映画を忘れないようにメモしておく。
ビル・カニンガム&ニューヨーク
ビル・カニンガムはニューヨーク・タイムズのファッションコラムと社交コラムを担当する男である。彼は言う。「最高のファッション・ショーは常にストリートにある」
だから彼は日々街角に立って、道行く人々を撮り続けるのだ。
ただし、撮影するのは独創的なファッションの人だけである。
最初に映画のチラシを見た時はあまり印象になかったのだが、彼が1929年生まれであるというところでぐっときた。
ビルは80歳を超えるおじいちゃんなのだ。
かれこれ4〜50年ほどニューヨークの街角で人々を撮っているというところで、すごく興味がわいて来た。
映画では彼の日常(ストリートやファッションショーで写真を撮る姿)と彼を知る数々の業界人のコメントを中心に、ビルの非常にユニークな人生が語られる。
それにしてもすごいのは、この年でありながら自転車でニューヨークの街を行き来しながら写真を撮り続けていることである。
それがまた単なる趣味ではなく、仕事として続いているのがすごい。
ビルさん自身は必要以上にファッショナブルではなく、シンプルで質素なおじいちゃんという感じ。
でも彼の口から出る数々のフレーズというか「ビル語録」はすごく重みがある。
「ファッションは鎧なんだ、日々を生き抜くための。手放せば文明を捨てたも同然だ、僕はそう思う」
この言葉にぐっときました。
オブリビオン
最近のSF映画はVFXの技術向上のせいか、大昔はよくあった「しょぼい特撮」の作品が全くない。しかしどの作品も似たような感じになってしまってるような気がするのだ。
で、オブリビオンも実はあまり期待していなかったのだが、とても面白く観ることができた。
映画の設定はSF小説としてはよくあるお話なのだが、ビジュアルが非常に美しいのと、少人数ながらも登場人物が魅力的な点に説得力を感じてしまった。やっぱりSFは絵である。
トム・クルーズが暮らす住居はすごくスタイリッシュである。
若干情緒不安定といえど、あんな美しいパートナーと一緒に住んでるなんて、仕事というよりご褒美な感じがしないでもない。あの暮らしぶりはちょっと羨ましい。
オブリビオンは「SF小説的」なSF映画だった。
今まで僕が体験した色々なSFのエッセンスがぎゅーっと詰まってる感じ。
キュリレンコさんが「ちゃんと」タンクトップになっちゃうあたり、作り手はSFヒロインというものを良く分かってらっしゃると、妙なところで感動してしまったり。
ラストはええ?ああしちゃうの?というところがちょっと微妙なのだが。
トム・クルーズが集めたレコードが、いずれも僕の少年時代から青春時代に親しんだ曲だったのも印象的だった。
イノセント・ガーデン
非常に美しく、スタイリッシュな映像である。お話としてはオーソドックスなサイコホラーなのだが、全然違う感覚・違う視点で撮られてるような気がするのだ。
ミア・ワシコウスカ扮する内向的でエキセントリックなインディアという少女。
彼女は突然の事故で自分の唯一の理解者だった父を亡くしてしまうのだ。
葬儀に現れた「叔父」を名のる男は彼女の家に滞在し、精神的に不安定になっている母は次第に彼に惹かれるようになる。
しかしこの叔父、なんだか変だ。目つきが普通じゃない。
インディアは警戒しながらも、なぜかこの叔父から目が離せない。
ニコール・キッドマン扮する母親の不安定な感じがすごくいい。
娘は全然自分になついてこないし、生きていた頃の夫は全然自分を構ってくれず、娘としょっちゅう「狩猟」に出かけていた。(父が娘を狩猟に連れ出すのは重要な理由があった、ということが後で分かるのだが)
娘を愛しながら憎んでいる姿と、匂うような色香がもの凄い存在感を出していた。
叔父役のマシュー・グードの不気味な感じも良いのだが、この映画は二人の女優の変わりゆく表情と存在感に圧倒されたのだった。
後半どんどん美しくなってゆくインディアの瞳も印象的である。
八月の鯨
この映画が公開されたのは1988年のことだ。僕はその頃二十代になっていて、十代の頃に比べるとあまり映画を観なくなっていた。
それでもこの映画を知って絶対観ようと思っていたのだが、結局観逃してしまったのだ。だからこの映画がシアター・キノでリバイバルされるという話を聞いて、今度こそ絶対観に行かねばと固く決意したのである。
ここで見逃したら若い頃の僕は、きっと未来の自分にがっかりする。
映画が始まって思ったのが「ああ、やっと観られた」という気持ちだった。
そして話が進むにつれて、僕が「八月の鯨」という映画に漠然と抱いていたイメージそのものの映画であることに、すっかり嬉しくなってしまった。
何かドラマチックな展開があるわけでもなく、ただただ静かに、静かに映画は進んで行く。でも最後にリリアン・ギッシュが「私たちこの家を出ないわ」って言った瞬間に涙がだーって出てきて止まらなかった。
それうにしても…..
おばあちゃんでありながら、時に少女だったり娘だったり、様々な表情を見せる二人の演技に、ただただ感動である。
パンフレットは公開当時の物を再現しているらしく、解説は淀川さんであった。
「泣き給え、思いきり涙をあふらせ給え」という一文があった。
この一文にもまた感動したのであった。
ローマでアモーレ
もうウディ・アレンが老後の楽しみ的に作ってるとしか思えない、ウディ・アレンワールド全開の作品。個人的にはクスクス笑いかな?と思って観に行ったのだが、いたるところ大爆笑であった。そして俳優ウディ・アレンが健在であったことも嬉しかったのである。
ローマで不条理な悲喜劇に巻き込まれる男女の姿。
観る人によってどのあたりに引き込まれるかは違うだろうが、個人的にはジェシーとエレンの二人がすごく可愛らしくて良かった。
ただ、僕はもう中年男性なので、あの若々しい二人よりは「だからなんでアナタはそこに?」的なアレック・ボールドウィンに気持ちが入ってしまった。
もうこの人の台詞一つ一つが「そうだ!そうなんだよ〜!」という感じ。
十代でこの映画を観たら、僕はエレン・ペイジの大ファンになってたと思うのだ。
でも中年男性なので「いやいや、こういう娘は大変なんだよ」という心の声が聞こえてくる。今の僕はウディの奥さん役であるジュディ・デイヴィスの方がぐっとくる感じだ。
燃えよドラゴン
あらためて大画面で観ると、ブルース・リーという人の圧倒的な存在感は、今観ても全く色褪せることがないのに驚く。確かにもう40年前の映画なので古びているところもあるし、今観たら「これはちょっと...」という箇所もある。でもいろいろな齟齬をひっくるめて、それでもこの映画は傑作であると言わせるぐらい、ブルース・リーは魅力的である。
70年代から80年代にかけて、いったいどれほどのブルース・リーの亜流作品、パロディ、イメージの流用があっただろう。
いったい何人の中高生男子が、テレビ放映の翌日に学校で怪鳥音を叫んだだろう。
観たら一気に70年代にタイムスリップしてしまった。
これはもう奇跡的な映像作品と言うほかない。