2013年11月3日日曜日

10月は仕事が忙しかった。
よほどストレスがかかっていたのか映画館に避難する日が多かったみたいだ。

2001年宇宙の旅

 新・午前十時の映画祭,で実に30年ぶりにこの映画を観る。
最近のVFX映像を見慣れているこの目が、この現代で2001年を観たらどう感じるのだろう。
映像が古びて見えるんじゃないだろうか?作り物っぽく見えるんじゃないだろうか?
観る前はそんなことを考えていたが、それは全くの杞憂だった。
やはりやはりこの映画は2001年を10年以上経過した今でも全く古びてないし、相変わらず「現実が追いついていないよなぁ」と思わされる映画だった。 
僕はいつも思うのだが、2001年はドキュメンタリー映画なんだ。
キューブリックが追及したどこまでもリアルに見える映像は、その完成度の高さゆえにいつまでたっても古びない。映像の感触はよくできたドキュメンタリーのような説得力がある。
船外活動ポッドがディスカバリー号から出入りする場面は、何度観ても本物を作って宇宙空間でロケしてるとしか思えない。死ぬまでにあと2回ぐらいは映画館で観てみたい映画だ。


エリジウム

スラム化した地球の風景とそこで暮らす人々の描写がすごくリアルだ。
ブレードランナーを観たときに「未来世界はこれしかない」って思ったのだが、第9地区やエリジウムの未来も非常に説得力がある。
宇宙に浮かぶエリジウムはSF小説の傑作「リングワールド」を思い出させるし、色々な小物、武器、乗り物、コンピュータのインターフェースなんかが、すごく好みの感じでうれしかった。
欲を言えば悪役ジョディ・フォスターの見せ場がもう1つ2つ欲しかった。
それにしても今から50年後にまだGT-Rが現役で走ってる.......なんてことがあるのだろうか?
物資が少ないから過去のスクラップをレストアして使ってるのだろうか。



ルノワール陽だまりの裸婦

僕は勝手に「画家の創作の過程が明らかにされる映画」と思っていたのだが、観てみたらそういう映画ではなかったのだ。ルノワール父子と彼らを惑わすモデルのお話と言った方が良いかもしれない。
この映画のルノワールは晩年をむかえ、年齢と病気のため体の自由がきかなくなり、かつてのような創作意欲は失われている。しかしアンドレという女性に出逢うことで、彼女をモデルにして再びルノワールは裸婦を描き始めるのだ。そこへ戦争から帰ってきた次男、思春期直前の三男がそれぞれアンドレに惹かれ始め、微妙な緊張感がルノワール家を包む。
映像はまさに印象派の絵画のようでとても美しかった。
そして三男坊役のトマ・ドレ君のちょっと不機嫌で、すねたような眼差しがすごく印象的だった。



パッション

今の時代にこんなにもデ・パルマとしか言いようのないデ・パルマ作品を観られるとは思わなかった。
僕の中では「殺しのドレス」「ミッドナイトクロス」「ボディダブル」がデ・パルマ三部作として心の殿堂入りを果たしている。ファントム・オブ・パラダイスもキャリーもスカ―フェースも大好きなのだが、この三作は特にお気に入りなのだ。期待しながら観に行ったのだが、これは......僕的デ・パルマ三部作が四部作になるんじゃないかというぐらい、高濃度デ・パルマ映画だったのだ。
まずレイチェル・マクアダムスの綺麗で意地悪で悪趣味な感じがすごくいい。デ・パルマは本当に女優さんのチョイスが絶妙である。
対するノオミ・ラパスがあえて美人過ぎない役どころなのがいい。そりゃ女優だから、ノオミさんだって実は相当な美人である。しかしこの作品でのノオミ・ラパスはものすごく無様で痛々しくて綺麗じゃなくて、観ていてきりきりと胃が痛む感じだ。ノオミ・ラパスのアシスタント役のカロリーネ・ヘルフルトという人も途中からどんどん「そう来るか!」という感じで話の大事なところに絡んでくる。このスタイル抜群の赤毛の美女も単なる脇役かと思いきや、途中からしっかりデ・パルマジェンヌと化していて素晴らしかった。

三人の女優が怖ろしい形相になったり、セクシーな表情になったり、悪夢にうなされたりするのを観るだけでもこの映画を観る価値があると思うのだ。
悪夢、覚めてもまた悪夢、現実なのか妄想なのか、そして螺旋階段。
妖しく光るナイフ、フェティッシュな女性たち、そして「うわーっ来た!これか!」と劇場で唸ったのが画面二分割のスプリット・スクリーン。頭の中をぐるんぐるん回される感じ、そして脳内麻薬がぱーっと分泌されてるみたい。設定は現代なんだろうけど、どことなく80年代の映像の感触だなぁ.....って最初思ったのだが、これは80年代のデ・パルマタッチだったんだろうと思う。

夜空に向かって「デ・パルマ監督ありがとーっ」と叫びたくなる映画であった。


トランス

映像の感触も、登場人物も音楽も、全てがとてもスタイリッシュ。
そして車の選択が絶妙。 重要な役割を果たすのが真っ赤なアルファロメオとシトロエンの2CVなのがまた良かった。
催眠療法士エリザベス・ラムの登場あたりから、お話が一気に加速してゆくのだが、現実と歪められた記憶が錯綜してゆく感じが素晴らしい。
イギリスが舞台になっているのも、この映画のトーンに影響があるのかなぁ.....なんて思ったりもした。
人が死んだり血が流れたりしてるわりには、エンディングは何故か気持ちよく爽快であったのだ。



クロニクル

観終わって思ったのが「高校生の時に観たかったなぁ」ということであった。
それほどこの映画は青春映画だったのだ。
超能力を手にした彼らは世界を救おうとか悪と戦おうなんてことは全然考えず、ちょっとしたいたずらや子供っぽいお楽しみのために、自分たちの力を使ってしまうのだ。それがまたすごく自然でいいし、確かに高校生でこんな力が手に入ったらこうだよなぁって。
駐車場で車を動かしたり空の上でアメフトしたり、そんな場面のいかにも高校生がフザけてます!っていう描写がすごく良かった。
しかし主人公のアンドリューは家庭環境に問題を抱えた子で、必要以上に自分を抑圧してしまうタイプ。
気づいた時には仲間との溝が深まり、この力に溺れてゆくようになってしまう。この力をうまくコントロールできなくなってしまうのだ。
終盤に展開される市街地での超能力合戦はすごく雰囲気がよく出ていた。
AKIRAと童夢が混ざったような感じである。
「ここまでできるんだったらAKIRAも作れるよなぁ.......いや作れないけど」なんて思ったり。
やっぱり「チカラ」を手にした人間はどうしても不幸になってしまうのだろうか?


オーガストウォーズ

観ると決めた映画はなるべく情報収集せず、事前にWebサイトもあまり見ないようにしている。
その結果、僕はこの映画「ロシアン・パシフィック・リム」だと完全に勘違いしていたのだ。
オープニングはいかにもそれ風なCG、さらにはロシア語のクレジットがすごく新鮮である。
だが、始まってみると時代はほぼ現代のロシア、主人公はシングルマザーのクセーニアさん。
一人息子のチョーマくんはとっても可愛いのだが、パパがいなくて淋しいのか自分にしか見えないロボットや悪の皇帝と、想像の世界で遊ぶような子供である。
オーガストウォーズは戦地に取り残されてしまった息子を、母親が命がけで救いに行く話だったのだ。
実際にあったグルジアのロシア侵攻をもとにしているので、当然現代の兵器によって現代の兵士が闘う映画でありロボットは出てこない。じゃあなんであんなポスターなのかというと、チョーマくんの脳内世界では怖いことの象徴として巨大なロボットが登場するのである。だから、あのロボットは彼の想像の産物として、ちょいちょい登場するわけだ。

映画の半分ぐらいまできて「........もしかしてこれはロシアン・パシフィック・リムじゃないのね.....」と思ったのだが、かといってこの映画がつまらなかったかというと全然そんなことはなかった。
クセーニアさんがまず魅力的である。
そもそも自分が彼氏と小旅行に行きたいって気持ちもあって、分かれた元夫に息子を預けてしまうのだが、それが発端となって息子の命が危なくなってしまうのだ。
途中知り合った兵士達に混ざって、銃弾が飛び交う戦地に飛び込んでゆくあたり、絵としては非現実的なんだけど面白い。どんどん化粧っ気もなくなるのだが、鉄兜から無造作に出ている金髪がなかなか素敵である。巨大ロボSF映画ではなく、リアル戦争映画としてみるとなかなか見応えのある場面が続くし、たまに現れる巨大ロボ的キャラクターもなかなか素敵である。
ぼくはこの日シネコンをはしごしてクロニクル→オーガストウォーズを続けてみたのだが、昭和の二本立てのように大満足の二本だった。

2013年7月21日日曜日


恐怖と欲望

これはキューブリックのデビュー作だったにもかかわらず、キューブリック自らが「こんなん観せられるかい!」と封印してしまった作品だという。
それが劇場で観られるというのはありがたいが、キューブリックご本人は天国でどんな心境なのだろうか。



確か最後に劇場でキューブリック作品を観たのはアイズ・ワイド・シャットだったよなぁ…などと思いながら蠍座へ向かう。
驚くべきことに、あれ以来キューブリック作品を映画館で観ていないのだ。

僕は色々なことを考えていた。

 キューブリックがダメ出ししただけであって実はレベルが無茶苦茶が高いんじゃないだろうか?

 まさか本当に出来が悪いってわけじゃないよな?

 キューブリックは天国で「やめろって!観せるんじゃない!馬鹿者が!」って思ってるのでは?

このお話は戦争映画であるが「架空の国のお話」という設定になっている。
飛行機が撃墜されて、からくも命拾いした四人の兵士が、なんとかして味方の前線までたどり着こうとするお話だ。



実際に映画を観ている間、僕の気持ちはまぜこぜであった。

 「なんだ?普通に面白いじゃない?観れる観れる、十分観れる」
 「うーん確かにここはちょっと粗いかも」
 「おおおおおおお!この映画はまぎれもなくキューブリック作品だ!」

そして観終わった後、僕はキューブリックこんなことを言いたくなった。
(いや、実際にあの世で会えたとしても恐れ多くて言えないが)

「封印したいお気持ちは分からないでもありませんが、これは確かに貴方の作品です。貴方がその後色々な映画で語ったモチーフの原点がここにあります。僕はこの映画を観る事ができてとてもうれしかったです。」

上映時間は一時間少々なので、あっという間に終わってしまうのだが、確かにまぎれもなくこれはキューブリック作品だと思う瞬間があるのだ。
演出なのか単に俳優が少なかったのかは分からないが、四人の兵士のうち二人は敵軍の将校と副官を二役でこなしている。この二役が画面に不思議な緊張感を与えていて、このお話の持つ寓話性を際立たせるのにすごく効果的だった。

でもまぁ確かに封印しちゃいたい気持ちも分かるのだ。
何と言っても監督・脚本(共同執筆)・撮影・編集がキューブリックなので、この映画の出来映えに関しては、ほぼ100%がキューブリックの責任ということになる。

僕のような普通の人からみても「うーん今の演技はちょっとw」という場面や「この展開はいかがか」という場面もあった。
極限状況の中でだんだん気が狂ってゆく兵士もいて、おそらくその過程をじっくり描きたかったと思うのだが、じわじわとやられてゆく感じがうまく出せていないとか。
敵軍の将校暗殺にこだわる兵士もいるのだが、そのこだわりを暗示するような伏線が前半であったら良かったのになぁとか。

もっとお金と時間をかけられれば、すごい作品になったんだろうなぁ…と思ったりもする。

同じ頃アメリカでは「ローマの休日」とか「地上より永遠に」なんかが作られてたので、キューブリックが「これは人様の目に触れさせない」と思う気持ちも分かるのだ。
でもキューブリックはこの映画で表現したかった事を、後の作品でしっかり表現していると思うし、僕は素晴らしい映像体験ができてよかったと思っているのだ。

そしてこの映画に登場しているヴァージニア・リースという女優さんはとても美しかった。なんというか、1950年代の女優さんとして美しいというよりも、現代の美の基準でも十分美しいのである。



キューブリックの映画を観ていると、人の心を激しく揺さぶるような瞬間や、ぞっとするような瞬間、あ〜狂ってる狂ってるもう駄目だ、という瞬間がやってくる。

恐怖と欲望はそんなキューブリック映画の原点となる作品だ。
確かに粗い部分もあったけど、まぎれもなくキューブリックの映画であったと思うのだ。

2013年6月23日日曜日


ものすごい忙しさが少し落ち着いた。
4月から5月はほとんど映画に行くことができなかったのだが、6月はその反動が来たのか、僕にしては足しげく映画館に通ったような気がしている。
6月観た映画を忘れないようにメモしておく。

ビル・カニンガム&ニューヨーク

ビル・カニンガムはニューヨーク・タイムズのファッションコラムと社交コラムを担当する男である。
彼は言う。「最高のファッション・ショーは常にストリートにある」
だから彼は日々街角に立って、道行く人々を撮り続けるのだ。
ただし、撮影するのは独創的なファッションの人だけである。

最初に映画のチラシを見た時はあまり印象になかったのだが、彼が1929年生まれであるというところでぐっときた。
ビルは80歳を超えるおじいちゃんなのだ。
かれこれ4〜50年ほどニューヨークの街角で人々を撮っているというところで、すごく興味がわいて来た。


映画では彼の日常(ストリートやファッションショーで写真を撮る姿)と彼を知る数々の業界人のコメントを中心に、ビルの非常にユニークな人生が語られる。
それにしてもすごいのは、この年でありながら自転車でニューヨークの街を行き来しながら写真を撮り続けていることである。
それがまた単なる趣味ではなく、仕事として続いているのがすごい。

ビルさん自身は必要以上にファッショナブルではなく、シンプルで質素なおじいちゃんという感じ。
でも彼の口から出る数々のフレーズというか「ビル語録」はすごく重みがある。
「ファッションは鎧なんだ、日々を生き抜くための。手放せば文明を捨てたも同然だ、僕はそう思う」
この言葉にぐっときました。


オブリビオン

最近のSF映画はVFXの技術向上のせいか、大昔はよくあった「しょぼい特撮」の作品が全くない。
しかしどの作品も似たような感じになってしまってるような気がするのだ。
で、オブリビオンも実はあまり期待していなかったのだが、とても面白く観ることができた。
映画の設定はSF小説としてはよくあるお話なのだが、ビジュアルが非常に美しいのと、少人数ながらも登場人物が魅力的な点に説得力を感じてしまった。やっぱりSFは絵である。

トム・クルーズが暮らす住居はすごくスタイリッシュである。
若干情緒不安定といえど、あんな美しいパートナーと一緒に住んでるなんて、仕事というよりご褒美な感じがしないでもない。あの暮らしぶりはちょっと羨ましい。

オブリビオンは「SF小説的」なSF映画だった。
今まで僕が体験した色々なSFのエッセンスがぎゅーっと詰まってる感じ。
キュリレンコさんが「ちゃんと」タンクトップになっちゃうあたり、作り手はSFヒロインというものを良く分かってらっしゃると、妙なところで感動してしまったり。
ラストはええ?ああしちゃうの?というところがちょっと微妙なのだが。

トム・クルーズが集めたレコードが、いずれも僕の少年時代から青春時代に親しんだ曲だったのも印象的だった。


イノセント・ガーデン

非常に美しく、スタイリッシュな映像である。
お話としてはオーソドックスなサイコホラーなのだが、全然違う感覚・違う視点で撮られてるような気がするのだ。

ミア・ワシコウスカ扮する内向的でエキセントリックなインディアという少女。
彼女は突然の事故で自分の唯一の理解者だった父を亡くしてしまうのだ。
葬儀に現れた「叔父」を名のる男は彼女の家に滞在し、精神的に不安定になっている母は次第に彼に惹かれるようになる。

しかしこの叔父、なんだか変だ。目つきが普通じゃない。
インディアは警戒しながらも、なぜかこの叔父から目が離せない。

ニコール・キッドマン扮する母親の不安定な感じがすごくいい。
娘は全然自分になついてこないし、生きていた頃の夫は全然自分を構ってくれず、娘としょっちゅう「狩猟」に出かけていた。(父が娘を狩猟に連れ出すのは重要な理由があった、ということが後で分かるのだが)

娘を愛しながら憎んでいる姿と、匂うような色香がもの凄い存在感を出していた。
叔父役のマシュー・グードの不気味な感じも良いのだが、この映画は二人の女優の変わりゆく表情と存在感に圧倒されたのだった。
後半どんどん美しくなってゆくインディアの瞳も印象的である。


八月の鯨

この映画が公開されたのは1988年のことだ。
僕はその頃二十代になっていて、十代の頃に比べるとあまり映画を観なくなっていた。
それでもこの映画を知って絶対観ようと思っていたのだが、結局観逃してしまったのだ。だからこの映画がシアター・キノでリバイバルされるという話を聞いて、今度こそ絶対観に行かねばと固く決意したのである。
ここで見逃したら若い頃の僕は、きっと未来の自分にがっかりする。

映画が始まって思ったのが「ああ、やっと観られた」という気持ちだった。
そして話が進むにつれて、僕が「八月の鯨」という映画に漠然と抱いていたイメージそのものの映画であることに、すっかり嬉しくなってしまった。
何かドラマチックな展開があるわけでもなく、ただただ静かに、静かに映画は進んで行く。でも最後にリリアン・ギッシュが「私たちこの家を出ないわ」って言った瞬間に涙がだーって出てきて止まらなかった。

それうにしても…..
おばあちゃんでありながら、時に少女だったり娘だったり、様々な表情を見せる二人の演技に、ただただ感動である。

パンフレットは公開当時の物を再現しているらしく、解説は淀川さんであった。
「泣き給え、思いきり涙をあふらせ給え」という一文があった。
この一文にもまた感動したのであった。


ローマでアモーレ

もうウディ・アレンが老後の楽しみ的に作ってるとしか思えない、ウディ・アレンワールド全開の作品。個人的にはクスクス笑いかな?と思って観に行ったのだが、いたるところ大爆笑であった。
そして俳優ウディ・アレンが健在であったことも嬉しかったのである。

ローマで不条理な悲喜劇に巻き込まれる男女の姿。
観る人によってどのあたりに引き込まれるかは違うだろうが、個人的にはジェシーとエレンの二人がすごく可愛らしくて良かった。
ただ、僕はもう中年男性なので、あの若々しい二人よりは「だからなんでアナタはそこに?」的なアレック・ボールドウィンに気持ちが入ってしまった。
もうこの人の台詞一つ一つが「そうだ!そうなんだよ〜!」という感じ。
十代でこの映画を観たら、僕はエレン・ペイジの大ファンになってたと思うのだ。
でも中年男性なので「いやいや、こういう娘は大変なんだよ」という心の声が聞こえてくる。今の僕はウディの奥さん役であるジュディ・デイヴィスの方がぐっとくる感じだ。


燃えよドラゴン

あらためて大画面で観ると、ブルース・リーという人の圧倒的な存在感は、今観ても全く色褪せることがないのに驚く。
確かにもう40年前の映画なので古びているところもあるし、今観たら「これはちょっと...」という箇所もある。でもいろいろな齟齬をひっくるめて、それでもこの映画は傑作であると言わせるぐらい、ブルース・リーは魅力的である。

70年代から80年代にかけて、いったいどれほどのブルース・リーの亜流作品、パロディ、イメージの流用があっただろう。
いったい何人の中高生男子が、テレビ放映の翌日に学校で怪鳥音を叫んだだろう。
阿修羅のような形相だけではなく、すごく人懐っこい笑顔や不敵な表情も彼の魅力である。また、ラロ・シフリンの有名な音楽も、やはりこの映画のテーマ曲として映画館で聴くのが最も素晴らしいと思った。

観たら一気に70年代にタイムスリップしてしまった。
これはもう奇跡的な映像作品と言うほかない。

2013年4月30日火曜日

観るアルゴ、読むアルゴ、2つのアルゴ

空港の書店でふと目に止まった早川文庫のアルゴ。

映画ではベン・アフレックが演じた実在の人物、アントニオ・メンデス氏が書いたドキュメントである。

映画も面白かったし、出張の往復に丁度良いかと飛行機の中で読み始めたのだが、読むアルゴには観るアルゴとはまた違う面白さがあった。

そもそもこの本の作者であり、救出計画で中心的な役割を果たすアントニオ・メンデス氏は、どういう経緯でこの職に就いたのか?
彼はどういう人間なのか?映画のベン・アフレックのような寡黙なタイプの男なのか?
実際の救出作戦も映画のようにスリリングなものだったのか?

おそらく映像化するにあたって、人物の設定や事実関係に多少のアレンジが加わっていると思いながら読み始めたのだが、原作もかなり楽しめるものであった。

昔の角川映画のコピーだったろうか「読んでから見るか、見てから読むか」というのがあったが、映画を観てからこの原作を読むと、いろんな点で興味深いのだ。

この本によるとメンデス氏のCIAでのキャリアのスタートは「偽造屋」だったという。スパイ映画なんかでエージェントに手渡される偽のパスポート、ああいった物を作る仕事である。
そこからキャリアを積んで、海外の要人を脱出させるような「現場」の仕事にステップアップしていったのである。

映画では出てこないのだが、文書の偽造だけではなく変装道具やメイクもCIAにとっては非常に重要で、ハリウッドのメイクアップアーティストに教えを乞うこともあったという。映画ではジョン・グッドマンが演じたジョン・チェンバース というメイクアップアーティストとの付き合いは、実は大使館占領事件発生前からのものだったのである。このあたり、やはり本職の人が書く文章はすごくリアリテイがある。

彼が荒唐無稽な脱出作戦を思いついた背景としては、こういったハリウッド人種との付き合いがあっただけではなく、彼自身が映画好きであるという点も興味深い。(ほんの数ページだが、彼の映画に対する愛情がうかがえる文章もあって、そこがまだ面白く読むことができた)



読むアルゴの方で印象的だった場面がある。

この任務でアメリカを出国する時、彼は空港で奥さんに結婚指輪を預けるのである。
潜入先では独身を装うため指輪は不必要なのと、必ず生きて帰ってくるという約束の意味もあっていつも指輪を預けるのだそうだ。

この場面の奥さんとのやりとりが実にいい。
映像化したらちょっとメロドラマ過ぎになっちゃうかもしれないが、現実の諜報活動を支える人間は、大多数が普通の人間なんだというのが良く分かる場面である。

細かい部分ではいろいろ脚色されている部分が多いが、観るアルゴは映画的な面白さを考えて、原作をとても上手に脚本化していると思う。そしてこの時代のSF映画が好きな僕にとって、本当にニヤニヤしちゃう場面がたくさんあったのも嬉しいかぎりである 。

確かにあの当時嵐のようなスター・ウォーズブームの後、80年代に向かってSF映画は大きく加速していったのだと思うのだ。

実際には作られなかった方のアルゴも是非観てみたいなぁ。

2013年4月7日日曜日

クラウドアトラスはとても素晴らしい映画だった。

予告編を観た時はあまりに世界観が違う場面が次々と展開するので、本当にこれらの映像が同じ映画なのか不思議に思っていた。
しかし観終わってみるとちゃんと1つの話になっているのがすごい。
多少のタイミングの違いはあれ、6つのお話が行きつ戻りつしながら、次々とにクライマックスに突入してゆくのは素晴らしい映画体験だった。



この映画で語られているのは全く違う時代、そして全く違う6つのお話である。
しかし演じている俳優がいくつもの役をかけもちすることで、全体的な統一感やお話の連続性をとても強く感じることができるのだ。人は何度生まれ変わっても生まれ落ちたその時代で、過去と同じように戦ったり過ちを犯したりするものなのか?と思ったりもする。

全体として確かにテーマはあるのだが、そのテーマに必ずしも合致していないお話もある。
万人受けする映画じゃないのかもしれないが、気に入った人にとっては相当深くヤラれてしまう映画なんじゃないだろうか。(この映画が万人受けしなさそうなのは、あらすじを説明しにくいってところがあるのかもしれない。)
どこに引き込まれるかは人それぞれだが、僕はソンミ451のパートが一番好きである。
やっぱりマトリックスを思い出したりもするのだが、個人的にはかなりツボにはまるようなビジュアルが多かった。さらっと描かれているが、これは相当練られているんだろうなぁ....

以下の6つのパートのタイトルは僕が勝手に名づけたものである。


「1849年 弁護士アダム・ユーイングの航海」 奴隷の売買という過去における人類の大きな汚点に焦点があてられる。
アダムは航海の途中、自分が助けた黒人奴隷に自分の命を救ってもらうことで、奴隷貿易へ叛旗をひるがえすことになる。 奴隷貿易というシステムはなくなったものの、ネオ・ソウルでの「複製種」としてより洗練された残酷さをもって復活する。
このパートの冒頭に出てくる海岸の海の色がとても綺麗で、ここもVFXなんだろうか...などと考えてしまった。


「1936年 クラウドアトラス六重奏の誕生」
映画全体を構成する太い軸として、支配される人間の解放というテーマがあるが、このパートで描かれるクラウドアトラス六重奏誕生までの話は、愛の美しさというもう1つのテーマが提示される。また、ここでは老作曲家がネオ・ソウルのイメージを夢で観るという、未来から過去へのつながりがあることも重要である。全体的にとても美しいパートである。
ここで登場するシックススミスは、唯一複数のエピソードで同じ役として登場する。


「1973年 原子力発電所の陰謀」
1970年代の空気を実に見事に再現しているパートである。どことなく往年のブラックエクスプロイテーション映画を彷彿とさせるお決まりの展開がすごく楽しい。
このパート単体ではハッピーエンドになっているが、全体としてとても重苦しい雰囲気がある。
人を支配する邪悪な精神と、それを打ち負かそうとする戦いは、このステージでは後者の勝ちのように見えても、実はこの時代では引き分けなのではないかと思う。
シックススミスがかつて自分の愛した人が自殺したのと同じく、拳銃で撃たれて命を落としてしまうのがとても切ない。



「2012年 ある編集者の悲喜劇、そして訪れるハッピーエンド」
全体の中ではコメディリリーフ的なパートである。
1936年に老作曲家として最後には銃で撃たれて死んでしまった男が、ここではうだつの上がらない編集者として生きている。
彼とて昔は詩作にはげむ感受性豊かな青年だったのに、いつしか世俗の垢にまみれていい加減な人間になってしまっている。老人施設脱出をはかる中で、彼は再び瑞々しい感受性を取り戻してゆくのだが、もうおばあちゃんのはずのスーザン・サランドンがとても美しい。
この映画でトム・ハンクスが演じたキャラクターの中では、このダーモットという男が一番好きである。


「2144年 ソンミ451のめざめ」
SFが好きな僕にとっては、最もエキサイティングなパートであった。
マトリックス的世界観、ウォシャウスキー節が炸裂し、観る者の心を激しく揺さぶるパートである。
生理的な嫌悪感をがしっとつかまえて離さない描写は、この映画の大きなクライマックスだと思うのだ。
複製されたクローンに人間並みの感情や人権があるのか?
このテーマに強烈な説得力を与えているのが、ソンミ451という複製人間の存在感である。
僕は久々に映画に登場する女性に心を奪われてしまった。



「2321年 人類の種は遠く地球を離れる」
ソンミ451が語った言葉はキリストの福音のように、後の世代に語り継がれてゆく。
大きな災厄が人類を襲い、人々は迷信やまじないに支配されるような原始的な生活に逆戻りする。ほんの一部の人達がテクノロジーを操るコミュニティーを作っているが、彼らはこの地球が汚染され居住できる場所が減っていることを知っている。
ここでトム・ハンクスが演じる、原始的な集落に住むザックリーという男。
彼は最後にはコミュニティーの女性と宇宙へ旅立ち、彼が外側から地球を眺めるところでお話が終わる。

なんとなくエンディングは「最後の猿の惑星」のラストを思わせるところがあった。
老人が子供たちに昔のお話を聞かせてあげるようなところなんか、ここで得られる感動はやっぱりSF映画っていいなぁと思ってしまうのだ。

なお、このパートでのヒュー・グラントはまるでマッド・マックス2から抜け出てきたかのような、勇ましい出で立ちであった。

2013年3月24日日曜日

ジャンゴ!いやシュルツだ!いやミフネだ!いやいやイサムだ!

ジャンゴはとても魅力的な映画だった。

なかでも僕が惹かれたのはクリストフ・ヴァルツ演ずるシュルツ医師である。
彼がどんな経緯で祖国からアメリカに渡ってきたのかは分からないが、とても深みのあるキャラクターとして描かれている。
ジャンゴを観に行ったはずが、シュルツにやられて帰ってくる婦女子が続出してるのではないだろうか。

ものすごく紳士なんだけど、平気で人を撃ち殺せるっていうキャラクター設定がいいなぁなんて。途中からどんどん彼の人間味が出てくるところと相まって、シュルツは西部劇の新たな名脇役として歴史に名を残すんじゃないかと思ったり。

ジャンゴは僕にとっては「繋がれざる男が自由を獲得して妻を救い出す」というよりは「シュルツという男の心のありようを表現した話」のように思える。
バウンティーハンターのシュルツという男が、一人の奴隷に自由を与えたことをきっかけとして、自分の心が変化してゆくのを感じる。そしてジャンゴの妻を救出をする中で、一個の人間としてどうしても我慢できないことに立ち向かってゆく、シュルツの怒りの映画として捉えてしまっているのだ。

冒頭のシュルツは、まだ何を考えているかちょっと分からない感じ。
あのギミック感あふれる馬車がまた「ちょっとこの人なんだろう?」な感じを強調してるし。


僕は酒場でビールを注ぐシーンが、とてもとても印象的だった。
注いだビールの泡を切るところ。
お洒落で物腰も丁寧、紳士然とした動きでビールの泡をチャッチャッときるところ。
ここでもまだまだシュルツがどういう人かは分からない。
ジャンゴもちびちびとビールを飲んでいるあたり、まだまだ油断してないのが分かる。


でも一緒に行動を共にするうちに、不思議だったシュルツという人の心の揺らぎがだんだん見えてくる。
彼の心の動きがが観る者の心にも迫ってくる。

僕は約2時間40分ぐらい、大いにこの映画を楽しんだ。
残酷な描写については色々な意見があるようだが、タランティーノ作品なのでまぁこんなもんじゃないかと思う。

でも、少し物足りなかったのがガンアクションである。
昔から西部劇ではおなじみの、引き金を引いたまま撃鉄を叩くようにして連射する動き。
シングルアクションのリヴォルバー特有のあのガンアクション、あの雰囲気をタランティーノ映画としてもう少し観たかったなぁと思うのだ。
でもその代りにディカプリオとサミュエル・L・ジャクソンのうわ~すんごい!としか言いようのない、こってりとした演技が観れたからよかったのだろうか。

ウエスタンというジャンルはものすごく大きな影響力を持っていたようだ。
ヨーロッパにわたってマカロニウエスタンが作られ、歴史上ガンマンがいなかったはずの日本でも和製ウエスタンという不思議なジャンルが生まれた。
今では和製ウエスタンの流れをくむ作品ってなかなか作られないんだろうけど、僕が小学生ぐらいの頃、ドラマで「人魚亭異聞 無法街の素浪人」というのがあった。

時代は明治維新頃の横浜で、三船敏郎扮するアメリカ帰りの「ミスターの旦那」(なんて素敵なネーミングだ!)が悪者を成敗するお話。
で、なぜか若林豪扮するガンマンも話にからんでくるという。
子供の頃は何の違和感も感じずに観ていたが、オープニング動画のカオスっぷりが素晴らしい。
時代劇と西部劇がミックスされたこの世界観、タランティーノがこのドラマを知っているかは分からないが、もし観たらものすごくウケるんじゃないかと思う。
チャンバラとガンアクションが融合してるってのも凄いんじゃないだろうか。


あと、僕らの世代で忘れられない西部劇と言えば「荒野の少年イサム」だろう。
 
あのマンガにも実は繋がれざる黒人ガンマンが登場する。
親の仇のウィンゲート一家を追って、時にイサムの協力者、時にイサムの敵として重要な役どころとなる、ビッグ・ストーンという男である。

川崎のぼるは巨人の星を描いていたが、野球はあまり知らなかったらしく、最初は野球漫画として表現が変なところもあったらしい。
しかし根っからのガンマニアの本領が発揮されたこの漫画、細部にわたる描きこみや、往年の西部劇を彷彿とさせる手に汗握る展開が素晴らしかった。

ビッグ・ストーンは黒人男性であるが、なんというかちょっと黒めの花形満といった風情もあった。

なお、このジャンプは1973年の物でお値段は90円。
「100万部突破!」と表紙に書かれている。
ジャンプが「友情、努力、勝利」をかかげてジャンプ一人勝ち時代を築くずっと前の頃である。
(ものすごい古本の匂いがするのだ......)

2013年3月2日土曜日

昔はこんなに泣かなかったのに~カリフォルニア・ドールズ

待望のカリフォリニア・ドールズを観ることができた。
札幌では上映しないかと思っていたのだが、なんとやってるじゃないか。
その日札幌を襲った猛吹雪の中、僕は蠍座へと向かったのである。

僕の映画メモによると、カリフォリニア・ドールズ(昔は確かドールスだったはずなのだが....)を観たのは1983年である。
多分封切りではなくリバイバルで観ているはずだ。
その頃の僕はSF映画が好きだったから、この映画はあまり期待しないで観たのだと思う。
でも、カリフォリニア・ドールズはとても面白かったし、観終わった後でなんだか清々しい気分になったのを覚えている。



今回実に30年ぶりに劇場で観られるなんて...僕の心は躍っていた。
僕の記憶に強く残っているシーンがある。
最後の試合が始まる前に、ピーター・フォーク扮するハリーは二人にこう耳打ちするのだ。
「負けても愛してる、でも勝ってくれ」
確かこんな意味合いのセリフだったと記憶していた。



劇場はリアルタイムでドールズを観たであろう中年の方々、そして傑作と名高いこの映画を一目観ようとする若い世代のお客さんも入っていた。
前に観た時は僕も18歳だったんだよなぁ...なんて思っているうちに映画が始まる。

「ああ、確かにこんな感じだった....こんな映画だったよなぁ」とすっかり懐かしくなる。

とにかくピーター・フォークの「シケたマネージャー」っぷりがすごくいい。
シケてるんだけど頭に血がのぼりやすいところも最高である。
ギャラを出し渋るプロモーターに頭にきて、そいつのメルセデスの窓ガラスをバットで粉々にするとか。
ドールズピンチとみるやサングラスに白杖を持って盲人のふりをして乱入するととか。(ここ笑っちゃいかんのだがリングの客席ともども大爆笑である)



このプロモーターはバート・ヤングなのだが、この人のケチくさいプロモーターもすごくいいのである。
なんというか、敵役なんだけど最後まで憎めない。

アメリカでの公開は1981年。
とはいえ80年代特有の享楽的でなんだかピカピカした雰囲気ではなく、まだ70年代の映像の肌触りを残している印象がある。ピーター・フォークが車に乗り、その横を二人がジョギングしている場面は、なんだかため息が出てしまった。

とても美しいのである。

3人ともやりきれないんだよね。
やりきれない思いを抱えながら、なんとかチャンスを求めてドサまわりしてるんだ。
時に眠れなくなるほど不安になったり、感情に歯止めがきかなくなってしまったり。
なんだかんだ言ってもお互いがお互いを必要としているし、必要とせざるを得ないのがすごく切ない。

金はないわ、試合のブッキングもなかなかうまくいかないわ、泥レスには出されるわ、ドールズも散々な目に合う。でもなんだかんだ言ってハリーのコネはあちこちにあるようで、なんとか大きな試合に出られるようになるわけだ。

僕は月刊プレイボーイを密かに立ち読みするような中学生だったので、いわゆるプレイメイト的な女性に憧れを持っていた時期があった。
多分十代の真ん中から後半ぐらいだろうか。



カリフォルニア・ドールズの2人はそんな18歳の僕にとって、すごく性的な意味でアピールするものはあったはず。でも途中からそういった部分はどうでも良くなって、ただただ彼女達になんとか頑張ってほしい、がんばれ!がんばれ!って応援していたのだ。

観終わって感じるのが、結局みんなイイやつじゃない?という感じ。
宿敵トレドの虎の二人も、そのマネージャーも。
ドールズが派手に登場するもんだから、すっかりおかんむりのビッグ・ママも。
バート・ヤングのボディガードも。

とくにビッグ・ママ、彼女の試合も観てみたいじゃないか。
「本物のビール持っといで!」っていうあたり、あの怒りっぷりも最高だ。
そして、トレドの虎のマネージャ、この人すごくかっこいい。
まさにアメリカの「Good Loser(よき敗者)」を体現している感じ。

さて、僕が覚えていた(つもりの)セリフはこうだった。
「負けたっていい、でもそうしたら今までの苦労が水の泡だ」
....なんだ、だいぶ記憶と違ってるじゃないか。
時間の経過と共に、自分のいいように解釈が変わってしまったようである。

でも、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく映画が終わるころにはエキサイトしながら涙ぐんでいる自分がいた。
多分18歳の時も泣いてたはずだ、でも今回はもっと泣いてたんじゃないかな。

ありがとう、ドールズ。

2013年2月23日土曜日

テッドは僕にとってフラッシュ・ゴードンの続編だった。

テッドという映画がこれほどフラッシュ・ゴードンだとは思わなかった。

冒頭、主人公であるジョンとテッドが成長する過程をみせるシーンがある。
テレビでくいいるようにフラッシュ・ゴードンを観る二人。
単にその時代の雰囲気を説明するためのカットかと思いきや、実はそこが大きな伏線になっている。

ジョンは1977年ごろの生まれという設定なので、フラッシュ・ゴードンが公開された年はまだ2,3歳。
おそらくフラッシュ・ゴードンを封切りでは観ていないはずだ。
でもテレビで繰り返し放映されるフラッシュ・ゴードンを観るうちに、この映画がかれらにとって大切な存在になったのであろう。
僕には兄がいるので、この感じはなんとなくわかる。
兄弟で漫画やテレビをみてるうちに、何年かかけてそれが神格化されてしまう感じってあると思うのだ。
肉親でなければ分からないルールを第三者であるジョンの彼女が理解できないってのは、テーマとしてありなのだが「そこがフラッシュ・ゴードンかい!」っていうのがキモなのである。

「未知との遭遇」や「スター・ウォーズ」の大ヒットで、世界的にSF映画がブームになったのが1970年代後半ぐらいからだろうか。
そして、アメリカのスペースオペラの古典ともいうフラッシュ・ゴードンがリメイクされたのが1980年である。
いみじくもロジャー・コーマンが「大手が我々の領域に手を出し始めた」というのはこのあたりなのだろうか。
フラッシュ・ゴードンは正直素晴らしいSF映画だったとは言い難いが、絢爛豪華でキッチュな映像やクイーンの音楽、そしてどことなくバーバレラを彷彿とさせるビジュアルはとても印象的である。
正統的なスペース・オペラの雰囲気を忠実に再現していたのもフラッシュ・ゴードンの特徴なんじゃないだろうか。




「サム・ジョーンズが来てる!」と電話をかけてくるテッド。
ここからサム・ジョーンズとジョンが30年越しの邂逅を果たすところ、爆笑しながらもちょっと感動する場面である。

ジョンはどれほど嬉しかったろうか。
そして僕も思わず「本人だぁ!」と声をあげてしまったのである。
映画の中のサム・ジョーンズはフラッシュだった、確かにあのフラッシュ・ゴードンだった。
彼が「80年代のパーティーをやるか」と言う場面は本当に素晴らしい。

さて、テッドは実に微妙な映画だった。
R指定のコメデイ映画としてはかなりのヒットだというが、劇場内は「ちょっと空回りしてる」ような空気もあった。
「カワイイけどお下品なクマ」だと思ったら「本当に下品でどうしようもないクマ」で引き気味の人もいた。
なんだか恥ずかしい字幕が出てきて、場内がなんとなく恥ずかしい空気になったりもした。

しかし僕にとっては30年以上たって、フラッシュ・ゴードンの続編を観たような気分だった。
結婚式のシーンでかかるクイーンの「The Wedding March 」を聴きながら、フラッシュ・ゴードンの大活躍を観たような気持ちになったのである。